昭和40年12月12日 夜の御理解



 今晩、御祈念を仕えようとする時間でした。家内が、今日は一日、青年会の方達のあの御用があっておりましたし、何かにとりまりまぎれてしまってから、「今日はお父さん奈良のおばあちゃんの立ち日です」て言う。「ほんなこつ、今ごろいうてからどうするか」ち。俺もうっかりしておったけれども、そんならちょっと、別に年祭という訳ではないけれども、お立ち日にはちょっとお茶の一つでも沸かさせて頂くんですね。
 そんでまあ、好きなもんの一つでも作ってからまあ、家族の者でお祭りをさせてもらうのですけれども。今日はもう御祈念の時間にかかってからです。ほんで今日は大変御祈念が遅くなりましたから、あの9時、9時半ぐらいから御祈念仕えさせて頂いたわけなんですね。おかげを頂きまして、魚屋に走ってもらう、有り難い事に昨日御本部参拝のおみやげをお饅頭やら果物やら、色々頂いておりましたからまあ。
 それやでそれでとりあえずあれだけのお供えが出来ましたから、今日は、そんな意味合いで、母の立ち日にまあ、家内を中心に私共夫婦、まあいわば心を込めてささやかながら、まあその、慰霊のお祭りと名がつくものではないですけれども、まあさせて頂いたのでございますけれどもね。本当に私は,御祈念の間際にでもですね、思い出させて下さるという事が有り難いと思うのですね。これが明日だったらどうだろう。
 私は御霊のお祭りだけは、今も総代の高芝さんが「先生、次のお月次祭かなんかに、盛大にお供えなんかしなさったらどうですか」と、それもよかと。問題は盛大という事ではないと。もう、今日というこの日というものを御霊がどの位の思いで待っておるかと言う事を私自身が知っておるのですから、私はこれはいつも言うんです。ね、例えば御とりこしをする、例えば言うてもです。
 やはり御とりこし、ただ御とりこしをしただけではうっかりしている。天地の親神様のお差し許しがなからなければ出来る事じゃないのですから。例えていうならば、天地の親神様がその御霊の氏子に「あー何月何日はお前とこにこうして、御用があるから行って来いよ」と言うてあるような時に、こちらがぽかっと取りこしのあ、その、お祭りでも仕えてごらん、御霊の留守中にせなきゃならんじゃないかと。
 そんなもんです。例えて、分かりやすくいうなら。ね、ですからこれがんなら、あの御霊様の、お祭りなんかをその、後からでもする時なんかは、もう前々からです、そのお立ち日の頃には、こういう事がありそうだから、もう、前々からこれは特に前々から、おとりこしの、じゃない、先に延ばすような場合は、天地の親神様のお許しを、頂いとかなければだめです。
 もうお祭りが仕えにくいです私が。ですから本当にまあ、今日のこうして晩の御月、あの御祈念の時間の前にでも、まあ思い出させて下さったという事が有り難いと思うてまあ、私自分であの神饌させてもらって、まあおかげを頂いたわけのでございますけれども。これはですね、皆さんあの御霊様のお祭りというのは、やはり実感を持ってするより他にはないです。ね。ですからこれはやはり子孫の者がする以外にはないです。
 やはり親の御霊、兄弟の御霊、先祖の御霊、やはり先祖の姿の現れであるところの、私が先祖のお祭りをする以外にないです。今日はなんというても、家内が中心になる以外にはないです。ね。ですから御霊様のお祭りをさせて頂く時には、まあ仏教では精進でもさせて頂いてとこう言うが、本当に心の中にいわゆる、神様へ御霊様に心を向ける精進させてもらうという事。
 今日美登里会でございましたから、夕方まで熱心にお話しなさってから降りてみえられてからです、矢次さんが「本当に先生まあいうなら、今こそちょっと白状いたしますけれども」と言うてから話すんです。先日はあちらの御霊様の式年祭を致しました。3人の御霊様。それに一人だけはどうしても、私のいう事が分かられない御霊様がおったんです。まあそれを分かり安くいうならば、あなた方達ばっかりは腹いっぱい食べてと言った様なその事だったんです。
 ですから私はあちらでもその事を、まあ申しますし、明くる朝は私は赤裸々その事を、明くる朝の御祈念で申しております。ところがです、今日その矢次さんがその事を、聞いてから、お届けされるんですね。「もう実は、本日は先生あの時には私共夫婦はもう本当に恐れ入ってしまった事がございますんです。本当にこれからは、手抜かりのないように致しますから、また改めてお詫びをして頂きたい」と。
 「実は私共の御霊様のお祭りの時には必ず、親先生なら親先生のお膳部を作ると通りの御霊様が3人なら3人のお膳部を作って、御霊様にお供えをさせて頂くのですよ」と。「ところが先生から、あの御理解を頂かせてもろうてから、本当に、もう不行き届きの御霊様のお祭りじゃったと、言うてその夫婦で話した事でございます」と今日その涙流してその事を、お詫びして頂きたいというてそれがお届けがあったのです。
まあ、例えばそういうような一事からでもです、いかに、御霊のお祭りというのがです、情をもって仕える。ね、しかも真心を以って奉仕するところのお祭りでなからなければいけないかという事が分かるでしょうが。もう信心させて頂くならばね、ここん所をね分かって信心のない人達よりもいよいよ実感的に、もうさあ父の五十年なら五十年じゃけんとか、ね、なんとかと言うてそのもう。
 立ち日だから、お茶でも沸かしたというならです、ただ形式でただお寺さんを呼んで、お経だけをあげてもらったと、言った様な事ではいけないという事が分かります。今晩の母の、そして御霊の慰霊になったか、ならんかは知らんけれども、まあ母がまた、ただ今私が色々頂く事がある、これはもう私が頂く事。後から家内に、その事を伝えたいと思うのですけれども。
 こうじゃったああじゃったと、いう事を物語ってくれる。一言二言があったんです。ね。ですが例えば、そういうような事なんかでも、今日の御霊の喜びがそういう形になって、私共と交流する事が出来るという事、だけでも有り難いわけですね。本当にお供え物もまあ、小さいでも、お供えが出来ましたし、また、おかげを頂いて、甘いものが好きでしたから、どうぞ。
 昨日頂いておりましたお土産をまあ、とりあえず、あれやらこれやら盛り合わせてから。まあお供えさせてもろうてから、今晩の御祈念に合わせてから、おかげを頂いたんです]けれども。「信心させて頂く者は何事にも真心になれよ」と仰る、その何事にも信心になる中に、特に御霊様、ご先祖の御霊様に対する処の、実意を以っての奉仕ということがいよいよ実感的に分かるようにならなければ。
 信心の有り難さはないと思うですね。実をいうたら、ね。ただこうしなければ、気持ちが悪いからといったような信心では、また、御霊様のお祭りではです、これはどうだろうかとこう思う。親戚の手前に、何年の年忌を務めたというような事ではですね、私はいけないと思う。ね。何事にも信心になれよと仰せられますから。
   どうぞ。